辞世
詩に根本的にうんざりする。
同時に辞世に惹かれる。
身はたとへ 武蔵の野辺に果つるとも とどめおかまじ 大和魂
有名な吉田松蔭の辞世であるが、
多少、維新の小物クラスまで辞世を漁っていくと
松蔭のパクリとしか思えない辞世が多々ある。
パクリというのは多少言葉が悪いか。
実際、和歌の場合本歌取りという技法まで存在するので
その辺は許容範囲だということだろうが
この傾向は、特攻隊の遺書にまで続く。
身はたとへ南のはてに朽つる
ともすめらみくにを忘れざらめや
身はたとへ敵艦船と砕くとも
七度生きむあかきこころは
いざ、死に行こうとする感情を、
あっさりと松蔭が残した和歌のスジに沿わせてしまうというのは
いったいどういう感情のもとでおこなわれたことなのだろうか。
案外、辞世などどうでもいいと思っていたのかもしれない。
死に至る行程で、頭をひねる必要は感じず素直さを出す。
それが本来の辞世だとすると、ある意味これらも素直な遺書であったのかもしれない。
まあ、いざ俺が死ぬというときに、俺を象徴するものを書けといわれたら
普通に凡庸なものを書くかもしれないしそうでないかもしれない。
ただひとつだけいえるのは苦しみにせよ哀しみにせよ、痛みにせよ
あくまで"凡庸な感覚"にすぎないということだ。