辺境とは何か

sexyhoya_kouzou2005-01-25

1990年代は、欧米などのインフォメーションを徹底して求めたと同時に、
戦後以降日本ではクール、として本来機能しなかったはずの、自国文化が
消費される萌芽をつくった年代だった。GSや和物レアグルーヴに代表
される運動はインフォメーション的でありつつも、邦楽=クソという
マニアにありがちな固定観念を逆利用したものだった。もともとが
基本的にこれらの運動の基礎部分を占めたアシッドジャズムーブ
メント自体がジャズファンクや60年代グルーヴなど、古典的かつ
メインストリーム(だった)意匠を逆利用し、そのうえで差異を求め辺境
(レアモノ)へ移動していくという、ある種相反するベクトルを
持っていた。その結果何が起こったか。90年代も半ばになると
1980年代においては、70年代のレゲエの消費に続けとばかりに
"ポップの辺境”として文化人類学的興味の対象として差異を強調され
聴かれていたに等しいワールドミュージックが次々と
"西洋的ムーブメントの中心に従った差異"として消費されていった。


和モノもその例からは漏れない。正直ダンスミュージックとして
消費される以上そこに感想らしきものは存在しないといっていいのだが
それでも敢えて感想を言えば"当時の日本人のくせに、こんなカッコ
いいことやってたんだな!"という西洋的価値観に染まった自分が
先駆者としての過去者を見つめたうえで差異を味として受け入れて
いたというのが正直なところだ。すでに差異は重要ではなく
重要なのは従属していることなのだ。


だとすれば和モノにおいて重要なのは民族性ということではない。
民族性は所詮グローバリズム通過の妨げとして、味として存在するに
すぎないのである。この公式があてはまると仮定すれば、すでに
民族性自体が、グローバルという神話を通過させていく歴史でしかない。
現在において辺境は確かに存在するが、根本的な意味はすでに完全に
変化したうえで存在しているのである。