電波男読了

とりあえず俺は本を読むのが極めて早い。その分身になる量も少ないが
電波男クラスの厚さなら大体二時間で読める。ということでもう電波男
読んでしまった。ぶっちゃけていえばとにかくあとがきだ。あとがきは凄まじい。
このあとがきに匹敵するすさまじい文章は、堺事件の記録くらいだろう。
愛が欲しいと言うことを一切本田透は否定してない。いわゆる男蔑視の快楽、
似非フェミニズムに浸った、高慢な女どもがもたらした荒涼たる光景
であり、恋愛、家族愛などを商品化した愛の資本主義の産物である。


しかし俺が敢えて疑問を提示するなら"愛で本当に救われるのか?"
というこの一点に限る。残念ながら答えはノーだ。家族愛にしろ何にしろ
全ては資本主義に染まっている。つまり"本当の恋愛じゃない"のだ。
全恋愛が。恋愛という形のつくものすべてが。家族愛にしろ
友情にしろ実際そうだ、と俺は思う。これは俺が友達が居ないだとか
恋ができないとかそういうことを示すわけではない。


ぶっちゃけていえば本田透にしてもそのことがわかってない訳では
ないと思う。じゃなんでkanonの成功後純愛ゲーが大ブレイクしたんだ。
純愛ゲーなら稼げるという意図のもとに決まっているはずだ。
いまやネギまの赤坂もそうだがオタク界の恋愛ですらマーケティング
によって決定される草刈場にすぎない。オタクの恋愛だって結局は
恋愛資本主義の産物だ。彼が提唱するであろう
オタクと負け犬女の対立はつまりは"恋愛資本主義の趨勢を占う
終戦争"なのである。しかしこれはあくまでオタクの反撃に
過ぎないのであって、パンチを浴びせそうになったら爪を見せて
やるというそのことだけにとどめる行為である。


だからこそ彼も
"本当の恋愛なんてどこにもねー"なんて書かなかったんだろう。


もうひとつ、ほんだシステムの可能性について。
これはマジかネタかと言われれば多分ネタの部類に入ると思う。
生産的なヲタなんて今や数少ないのだ。80年代の黄金時代とは
まったく話は別。純粋な消費者層が大半じゃないか。このシステムを
持ち出してきたのは当然のことながら恋愛に代わるシステムを、という
ことからの構想だろうけど、おそらくひと握りの人間が動かすだけの
かなり閉鎖的なシステムになってしまうだろう。まちがいなく。
萌えさすだけの画力を持ったヲタなどほとんどいないのだ。