俺とお前は同志の桜

sexyhoya_kouzou2004-11-24

では、ハマザキを擁護する人間(ここで重要なのはハマザキ当人の問題ではなく
擁護する人間の問題であり、そこにおいてハマザキが実際ゴーストライター
使っているか使っていないかは除外する)は、何ゆえに擁護するか。根本的に
問題とすべきなのは、そこである。そこにはゲイがドナサマーを擁護する行為の
ような業の深さはない。しかしもう一度、問題を整理しておきたい。


擬似同志、への共感が生まれるにあたり、様々なケースを上げておきたい


1.同年代の代表への共感(ボクシングのフォアマンへの親父層の支持など)
2.同コミュニティの代表への共感(モッズにおけるザ・フーとか)
3.同郷の代表への共感(高校球児とか)


まずここにおいて存在するのは当然のことながら、"同じであること"への共感である
これはクールの構図とは、根本的に異なっている。なぜなら、クールにおいて
最も必要とされることは、他人と異なっていることだからだ。しかし年代を経過
するにつれ、必要とされるのは銀幕でふんぞり返るスターではなく共感できる
対象が必要とされるようになった。これを俺の知り合いは擬似ナルシズム、と
定義した。これを繰り上げて考えれば、擬似ナルシズムゆえの自己弁護の延長が
かのハマザキ擁護には存在する、ということになる。根本的な面では筆者は
それに賛成するのだが、しかしその場合、ゲイディスコにおけるドナ・サマー
ケースは、完全に自己のアイデンティティを否定する存在を擁護する人間という点で
非常に奇妙な問題といえる。自己否定と自己弁護が両立する、ということについては
たとえばゴスロリなどの自傷傾向をもってして説明できるかもしれない。しかし
彼らゴスロリは、自傷傾向をもってして自らのアイデンティティを保護しているに
すぎないのであり、そこに"自らのアイデンティティを否定することを弁護する"
という感覚に至るわけではない。では、何ゆえに自らのアイデンティティを否定する
存在を弁護することが可能なのか。


ここにおいて、音楽という分野の特殊性をあげなくてはならない。
つまりは、ディスコで音楽が流れていた、がゆえにドナサマーを擁護するという
構図を掘り下げるのである。ここにおいて最も重要なのは、"環境"ということである
人間は、自らがすごした環境を擁護もしくは否定する。そして重要なのは、
かのドナサマーは、彼らゲイの環境に密着していたということである。ここにおいて
ゲイは、"自らの環境"を否定するか"自らのアイデンティティ否定した人間"を否定
するかの二択を迫られるわけである。多くのゲイは、後者であったことは確かである。
しかし前者の人間も存在する。何故か?当然彼らの"環境"は、現在も連続しているから
である。たとえば、これは"軍靴の音が迫る"というような、"空気"に対して敏感な
反戦主義者たちの言動と似ているようであるが、非なるものである。なぜかといえば
戦前と異なるのは、明治時代の富国強兵という"環境の連続の果て"に訪れた"空気"と
昭和戦後の平和主義という"環境の連続"が破綻しつつある"空気"は、その過程において
根本からして異なるのだ。ここで、ワイマール時代や大正デモクラシーなど、ある
一定の"環境の連続"を提示するのは実に簡単なことだが、戦後五十年という"連続"に
比しうるものかといえば論外といわざるを得ない。


この構図でいえば、ナチ時代はワイマールという"ドイツ帝国の断絶"に対する
反発からはじまったとして、まったく逆の構図が浮かび上がることになる
"昭和の平和"が破綻したことによる"昭和の平和"の断絶、それに対する反発が
今起ころうとしているのである。本質的に反戦も右傾化も変らんのだ。
(言っておくが、彼らを批判する気は更々ない)


つづく