鳥取城干し殺し

sexyhoya_kouzou2005-03-30

1581年、鳥取城を攻略の命を受けた羽柴筑前守秀吉は事前に鳥取城近辺に
大量の商人を送り込み、兵糧を買占めさせた。その後蟻の這い出る隙間も
ないほどに包囲網を展開した。じわじわと鳥取城は飢えていく。
城の土壁に埋め込まれていた芋茎や山菜、城中の松の木、さらには
牛馬を殺して食べた。それも尽きると人食が始まる、餓鬼道へと堕ちた
のである。10月20日に秀吉から降伏勧告が申し入れられる。
城主吉川経家は自らの切腹をもってして城兵を救う条件でもって
降伏勧告を受け入れた。鳥取城は陥落した。早速降伏した城兵のために
炊き出しが用意されたが、城兵たちは制止も聞かず多量の粥をいっぺんに
腹の中にかきこみ、ほとんどが栄養過多で頓死していった。信長公記には
十月十五日、取鳥(とっとり)籠城の者扶(たす)け出ださる。余りに
不便に存知せられ、食物与へられ候へば、食にゑひ(=酔い)、過半
頓死候。誠に餓鬼の如く痩衰へて、、、」とある。自らの持論として
理想はおそらく最悪の形式でもって実現すると考えているのだが
論拠とはなるまい。