腐愛闘倶楽部
あれほど男男した映画でありながら、ファイトクラブにはなぜかレイプシーン
およびそれに準じるシーンが決して登場しない。それは何故か。マーサとの
激しいファックを通じても結局主人公はマーサを従属させることはできない。
マーサの出会いからして受動的にすぎない。あきらかに誘いと思われる電話に
主人公+タイラーは乗っかって、すさまじいファックテクニックを行使する
のだがそれはけして相手を従属させるためではない。むしろ従属させるべき
存在はあくまで男性原理的なガチンコ勝負のファイトの場でしかない。
しかし結局のところ、血液によって支配人をビビらせることなどという
行為のみでしか、要求を貫徹することはできなかった。結局のところ
彼らにとって革命は自己破壊的行為でしかなく、自らの生活基盤のひとつ
ともいうべき大企業のビルディング破壊によって社会システムの破壊という
目的を達成する、にしても実質無血でだ。社会システムはきわめて女性的
であるにもかかわらず、それの犯行分子たるタイラー達は自分で自分を
ぶんなぐることによってしか行動できないのであるなぜか、支配が念頭に
入ってないからだ。
ここで比較対照にすべきは佐藤まさあきの最大の鬼畜劇画"堕靡泥の星"である
ある嵐の晩、強盗が東大教授の家に押し入りその妻を強姦した。その後生まれた
主人公が自分の出自から悪の哲学に目覚め、二十歳になって父親を殺害
父の遺産を引き継ぐと、地下室に牢獄SM室を作って高慢な女性たちを次々と誘拐、監禁虐待
するというもの。「暴行!これこそ男にとって本当のセックスだ!」 を
合言葉に殺害暴行様々な鬼畜な所業を繰り返し、その後アウシュビッツ展を開き
日本人の獣性を再び目覚めさせようとしたりする。ここではあきらかに社会への
反逆は犯し殺害することと同意義である。
もっとも年代の違いを重視するべきかもしれぬ。70年代と90年代ではワケが違う
70年代はどうしたってあの激動の60年代の後遺症が頭の中に残っている。暴力
こそが社会を変革する手段であるというのは、70年代においては公民権運動後の
荒れに荒れた黒人層、、ケネディが暗殺され、文化大革命、日本では赤軍という一連の
流れの中で当然の手段である。しかし根本的に90年代においては、暴力が社会とのコミュニ
ケーションを否定することという時点にまで貶められ、さらに実際暴力は自閉化していく
のである。暴力は誰に向けたらよいのか。ラストシーンでマーサと手をつなぐ場面は
正直それほどの意味を成している行為ではない。結局コミュニケーションの始まりを
意味するこのシーンが終わったあと、タイラーの趣味である"性器ハリコミ"がこの映画に
対しても行われているからである。