とりあえず仙台から東南の方向にいってきてさまざまな人間と話してきた。
俺は彼らほど物をかんがえているのかということをたまに思うのだが
やはり考えてはいないだろう。ただくだらないことを考える回数だけは
多かったとは多少思ったりする、今日もとりあえず腕相撲でいかに勝つか
という方法を考えていたのだ。まず腕相撲の場合ヒジで支点をとるわけだから
東京で軽くおれが考えたような体重をかけるという手法はやはり使えないという
ことがわかった。体重をかけてもエネルギーはヒジから台に逃げてしまうはずだ
しかし台に固定するのには十分であろうと思う。


とりあえず中学校時代理科で力がどんなふうに働くかということを何となく
覚えているだけでしかないが、そう考えるとヒジをつけて戦うというあの
ルールがいかに優れているかということがわかる。手袋にちょっとした
ボタンを縫い付けてみようかともおもったが被害はおれのほうに来るのが
明白なのでそれは却下した。まずわかったのは、相手の腕を四十五度まで
倒した状態の場合相手の腕の筋肉が働きにくいからそのまま倒れるという
こと、体の回転をそのまま生かすことはなんとか可能ということだ。
ダンスを多少やっていて気付いたのはこの回転の使い方と、
ある程度不随意筋を生かす方法があるということで、実際多少わざと
バランスを崩すと不随意筋が働いて倒れまいとして筋肉が普通以上の
力と速度で動く。これと回転を組み合わせるとなかなかすばやい動きが
可能になるのだ。そしてこれは案外精神のリミッターと直接つながってる
部分があるのでたとえば戦闘体制になれば残虐なやつ、精神リミッター上で
血を見てもなんでもない奴が、たとえ貧弱であれ勝ってしまったりするのであろう。
普通に俺も筋肉はないほうだ。


今考えれば小学校時代俺は優しかったのだろうか
普通ならば腕相撲で女に負けるはずはない。
というより負けるのがイヤで負けていただけのハナシだ。


つぎに東京から帰ってから考えているのがヤンキーの詩と現代詩はどちらが
いいかということなのである。まあこれは日雇い氏が言っていた現代詩VS
ヤンキーポエムということで、日雇い氏はとりあえずヤンキーポエムを
推していたのでそれに反抗したのである。擁護の仕方がヤンキーのほうが
いいということだったのかヤンキーのほうがいいこともあるということ
だったのかいまいち忘れてしまった。とりあえず前者と言うことにしておく
考えやすいからな。後者ならまあ猿は木登りがうまいが人間が落ちずに
猿も木から落ちることがあるという例の理論でお仕舞いだからだ。


おれがヤンキーポエムをきわめて嫌悪するのは連中は言語萌えを超心得て
いるということなのである。しかも自分のキャラクターはどういうものだ
ということも抑えているので、素朴凶暴なヤンキーがたまに言う本音のような
もので人間はああ奴はいい人間なんだなという演出をすることが出来る。
しかしそんな演出は結構見飽きてきたので俺はどうも信じることができないのだ。
まあヤンキーも人によるというつまらない結論に落ち着きそうなので
自己嫌悪に陥っている。まあ考えたところで突飛な結論などはそうそう
出るはずはない。裏道を探しても結局は表道がすいていれば表道のほうが
はやく目的地につくことのほうが多いのだ。それでも裏道を探すのが
俺の人生のクオリティというものなのかもしれない。