若い人間に対する

若い人間に対する、ということはあまりやってきた覚えはない。
実際問題こいつをはじめるようになったのはネットを経験してからだ。
実際先輩後輩といった間柄においてはきまって後輩などにも対して
尊敬を与えるような人間でもなかったし、現在もそうだ。むしろ
軽蔑を与えられる人間の部類に属するだろう。ということで実際問題
リアルにおいては別に彼らに対する機会は一切なかった。


リアルの関係においては奢った上で、自分の経験に基づいてある程度の
説教を語るなどが我らの役目ということになるのだろうがかといって
それほど壮絶な人生経験もした覚えはない。むしろ冷静な観察役と
してさまざまな人生を観察してきたほうだ、とはいえこういった
観察役のポジションの常として他者の人生に干渉することは滅多に
ない。だから冷静に話の聞き役に徹する。


若者に対して大いなる共感をもって若い人間を受け入れようという態度には
どうも大人になってから見ると無責任な同意によって自らの回春を図ると
いう態度しか見えず、かといって最近の若い人間は、とどうこう語ることも
権威性優位性の確認でしかない。無駄に若い人間や歳を食っている人間の
どこが偉いというのか、恥を知るべきだ。とはいえ語らぬこともまた
無関心というべきだ。


ここで対話の問題に移ろう。たとえばある種の人間が対話を重視していたと
して、その対話が明確に政治的解決の手段として用いられている以上当然の
ことながらある種優位性を確保する手段として用いられていると考えざるを
えないのは当然のことである。実際のところ紛争ではなく緊張は対話が必要
といいつつ対話を決してしないというある種のバランスによって成立している。
対話の拒否、は国際政治的には、明確に紛争への道を意味するからだ。


とはいえ我々は結局紛争の場に生きているわけではないので、問答無用という
立場が紛争に結実するわけでもない。せいぜいが罵声が飛び交うだけという
だけの話だ。誰が死ぬんだよ一体。対話とは究極的になにかとかんがえれば
ひょっとしてただ脚色なしに自分を語っていく以外に方法はないのだろうか。
ぶっちゃけ相当キツい話だ。