餓鬼の頃、アメリカに行ったときに銃のレッスンを受けた。
最近知ったがアメリカには子供用の銃というのがあるらしく
おれの撃った銃もおそらくそれだったのだろう。弾はやたらと
小さく、丁度メモ帖にひっついてる鉛筆みたいな薬莢がかぶさって
いた。初心者は反動に耐えられないから伏せ撃ち、という鉄則を
まずは教わった。


それに必ず銃は使わないときは安全装置をつけ斜め横下に向けること。
暴発の可能性もあるし、もしそれを守らなければ銃を持ちながら
誰かと相対する場合ほとんど相手に対し攻撃の意図を持っているのと
同様だということだ。何気なく前方下に向けてしまったときには即座に
教官の注意を受けた。そのときは空気銃だったので大げさだな
と思ったが。相手が本物の銃と間違ってしまったら子供であれ撃ち
殺されても仕方がないということである。たしかにもっともな事だ。
ロクに装填のやりかたも覚えていないが、強烈な印象のせいか
これだけは覚えている。


銃社会というと無法という感じはあるが、銃社会には銃社会なりの
ルールというものがあるということらしい。まぁ日本人も百数十年
前は刀を差して歩いてる奴がなんぼでもいたが、それほどのことは
おこらなかった、ということを考えれば納得がいかぬこともない。


銃規制に対するチャールトンヘストンあたりの超反発も、バック
グラウンドに銃業界があるってことはまた別として、明治期の廃刀令
あたりを想像すれば容易に日本人にも理解できることではあると思う。
平和な時代になれば兵器というものは儀礼化した産物になる。
19世紀には、スポーツという概念が生まれた。これに関しては決闘の
合理化と言っていい。死なず、ひどい怪我を負わぬように戦うのだ。
フェンシングはスポーツと化したし、日本の剣術も武士の教養という
過程を経て近代剣道という形式でスポーツ化した。スポーツ化の過程
においてたとえばボクシングなら一般人に拳を向けるのは言語道断と
いうことになる。


アメリカの射撃レッスンで感じたのは、スポーツ化、あるいは教養化
する以前の純粋な殺人術としての武術の匂いだ。保守的な方向に移行
しつつあるアメリカにとって必要なのはすでに革新的論説よりは
保守的なアメリカ人が、銃というものがアメリカの文化体系そのものに
組み込まれていると主張するのであれば、必要なのはある種逆行的な
銃という兵器の儀礼教養化の過程かもしれぬ。