梁山泊

sexyhoya_kouzou2006-04-07

久々に見たらひでぇことになってんな。
情報が量で質を凌駕する時代はもはや終焉したと思っていたし
凌駕すべき量自体にも質が要求されるという時代だと思っていたが
相も変わらずナチ時代から広告戦略が変化してない奴はいるらしい。


というより善良なパンピーは、声をあげるという戦略に弱すぎる。
結局その声がどのように厳選されているか、に気が付くのが
詩人という職業、というより意識の重要な方向性だと思って
いるんだが、そこで一切の吟味を消去した低脳な発言の連発で
ある種の行為を為そうというのならそれは広告屋の仕事だ。
それを軽蔑するつもりはない。ただ本質などありはしないという
論理に囚われたらそれは広告屋だというだけだ。あくまでこれは
職業倫理的な問題にすぎない。ジャーナリストでもないし詩人
でもない。永久に。というよりそもそも広告技術は興味を惹き
つけるものにすぎず真実やら本質を訴えかけるためのものでは
ないということをみな忘れがちだ。


たとえばかのキング牧師は、手法的には広告的手法を用いていた
直接対話こそが行動の目的だ、と言っていた時点でも明らかで
その行動は実際のところ敬意を表する。しかし目的を後先ない
短期的な利潤追求に終始した広告的手法は完全なただの行為と化す。
今すぐビラでも撒きにいけばいい。だから殆どの人間が広告屋
化した現在においては虐げられた人間は詩的でもなんでもなく
ただ醜いだけだ。すでに存在を顕示するだけで何一つとして
対話を要求しないやりかたをしているのか、それともキング牧師
言う如く要求しているのかを明確に判断する能力がなければならない
なと思った。


おれは以前対話の継続はそもそも時間稼ぎにすぎないんじゃないかと
言った。というよりサッカーの試合に負けても血が流れる国際政治や
阪神が負けても血が流れる社会のナイーブな問題に比較すると血反吐
が流れるわけでもない詩っつーマイナーな分野にそういう手法が必要なのか
疑問に思ったのだ。実際そうだ。そもそも相互理解など血も暴力も
憎しみの応酬すらないんだから要らんと思う。そこまでいったら
没個性的な状況を形成するだけじゃんとしか思えん。


ここで敢えて言えばこうなるだろう。対話を要求して声を上げるんなら
状況が対話前より不利になっててめぇがその分余計に大損する覚悟も
しとけと。


もはや現在は、声をあげまくる異常多数派と少数派が本来持って
いるはずの詩的感覚が完全に逆転したのだ。もはや声をあげ、
声を聞くことさえうざったいと誰もが感じるようになるだろう。


圧倒的な物量を質でもって凌駕するのが美学ってもんだ。ただそんだけ。